遠い南の島国「パラオ」
パラオってどんな国?


日の丸の色違いみたいです😀

黄色いマルが少し左に寄ってない?
確かに中心から少し左にズレてますね。
でも派手になった日の丸のようです!
場所を見てみます。

よく分かりませんね😥

全体を見ると、こんな感じです😄
距離を測定してみると、パラオの最大都市コロールは、フィリピンから約900km東に位置していました。
人口は約18,000人で通貨はアメリカ合衆国ドルが使われているそうです。
漁業(マグロ)・農業・観光業が主産業となっているそうです。


キレイですね🤩
【ビックリ!】パラオの言葉
パラオの現地語がビックリで笑えるんです😁
- 扇風機・・・センプウキ
- 電話・・・デンワ
- ブラジャー・・・チチバンド
- ビールを飲む事・・・ツカレナオス
- 美味しい・・・アジダイジョウブ
- 混乱する事・・・アタマグルグル
- 競走・・・ヒャクメートル(例: 50m走→「50mヒャクメートル」)
- じゃんけん・・・アイコデショ
※Wikipediaより抜粋
日本が関係しているのは明らかですね!

だけど、日本人が教えた。というよりは、
日本人の行動や言葉を聞いて、真似をした。
って感じですよね😄

アイコデショ。
日本人が「じゃんけん」する姿を近くで見てたんだね!
なんだかお茶目で親近感が湧いてきませんか?
今ではブラジャーの事を「チチバンド」なんて言う日本人はいませんよね😁
・・・ということは、
ブラジャーの事を「チチバンド」と呼んでいた時代の日本人が深く関係している。という事になります。
パラオが正式に独立したのは、1994年(平成6年)です。
つい最近ですね😮
このパラオの歴史を辿ってみると、とても感動的なエピソードに出会うことが出来ました。
パラオの歴史
- 約4000年前:遺跡の発掘などにより、この頃から人が住んでいたとされる
- 1885年:スペインの植民地に
- 1899年:スペインがドイツへ売却
ドイツ領に - 1914年:第一次世界大戦が勃発日本が占領
- 1919年:第一次世界大戦の戦後処理(パリ講和条約)により、日本の委任統治領となる
- 1945年:第二次世界大戦で日本が降伏した為、日本の統治が終了
- 1947年:アメリカが信託統治を開始
- 1994年:「パラオ共和国」として独立
国際連合にも加盟
※委任統治: 第一次世界大戦後、国際連盟のもとで一定の地域の統治権を有力国に委任すること
※信託統治:国際連盟の下で行われていた委任統治を受け継ぎ、これを改良して国際連合が設けた制度

日本が統治していた1919年~1945年くらいなら、
「チチバンド」って言ってそうだね

でも他の国にも統治されていたのに
どうして日本語なんだろう?
日本がパラオに行った政策
スペインが統治していた時代には、天然痘というウイルス性の病気が流行した事、現地人への搾取等が原因で、人口が90%も減少したと言われています。
ドイツが統治していた時代も、ココナッツやタピオカ等の生産による利益をドイツ人に独占され、道路や水道といったインフラ整備もされなかったようです。

そんな状態の後、日本の委任統治が
始まったんですね!
日本はまず道路や学校・病院といった社会的な基盤を整備しました。
なんと1920年代にはコロールは近代的な街に急速に発展し、多くの日本人も移住したといいます。
また、移住した日本人たちは現地人に対して、極力差別しないように努めたそうです。
日本語による学校教育もスタートしました。
1933年、日本は国際連盟から脱退し、戦争になるかもしれないと考えた日本はパラオ各地に海軍の施設を建設しました。

当時アメリカ領だったフィリピンからも近いし、
まさに重要拠点ですね。
実際に太平洋戦争では多くの軍艦や輸送船が、パラオからフィリピン等に向けて出港していきました。
パラオにもアメリカ軍が・・・
世界遺産「ロックアイランド」よりも南西にペリリュー島という島があります。
ペリリュー島には日本軍の飛行場があり、守備隊が守っていました。

写真の中川州男(なかがわくにお)大佐が隊長さんでした。
中川大佐指揮のもと、ペリリュー島を守る為に日本軍は陣地を設営しました。
日本軍の兵隊さんと現地人が一緒になって、約1年間にわたり地下深く穴を掘ったりして島を要塞化していきました。
一緒に作業しながら、兵隊さんと現地の人は意気投合し、とても仲良くなったそうです。

一緒にビールを飲んだり、歌を歌ったり、
チチバンドの話で盛り上がったのかな?
1944年、日本軍は次第に追い込まれていき、グアムやサイパンといった島々にもアメリカ軍が上陸し、占領されていきました。
グアムとフィリピンの間にあるパラオへアメリカ軍が攻撃してくる可能性が高まってきました。
現地の人達は話し合いをしました。
「アメリカ軍が攻撃してくるよ!みんなどうする?」
「日本の友達と一緒に戦うに決まってるじゃん!」
話し合いは全員意見が一致し、現地の人は日本軍と共にアメリカ軍と戦う決意をしました。

悲しみに暮れるパラオの人たち
決意を固めた現地の人は、代表を数人決めて中川隊長のもとへ思いを伝えに行きました。
「ワタシタチ、アナタタチト、イッショニ、タタカイマス。」
中川隊長はしばらく無言で、代表者たち1人ひとりの目をまっすぐ見たそうです。
そして・・・
「何を言っているか!貴様ら土人と帝国陸軍が一緒に戦えると思うか!」
普段はとても温厚で優しいお人柄だった中川隊長が、ビックリするほど大きな声を出したそうです。
現地の人達は悲しみに暮れました。
自分達の思いを受け入れて貰えず、しかも土人とまで言われてしまった。
あんなに仲良しだったのに、見せかけだったのか・・・。
心の中では見下されていたんだ。
土人だなんて・・・
現地の人達は日本人の本音を目の当たりにし、多くの人が涙を流したそうです。
そして島を出る事になったのです。
出港の時、誰も見送りに来ていませんでした。
「さみしい・・・私たちの島、さようなら。」
船は出発していきました。
出港してしばらくして島を振り返ると、ジャングルから日本兵たちが出て来ました。
日本軍の兵隊さん達は、船が港を出港するまで身を潜めていたのです!
「おーい!みんな元気でなー‼」
日本の兵隊さん達はみんな帽子を振って笑っていました。
一緒にビールを飲みながら聞かせて貰った、日本の歌を歌っている人もいました。
帽子を振る兵隊さんたちの中に、中川隊長の姿もありました。
「あの時の中川隊長の笑顔は最高でした。」
当時を振り返って、こんな風におっしゃられた現地の人もいたそうです。
「私たちは決して差別されたのではないんだ。誤解していた。私たちの命を救うために、あえて酷い言葉を使ったんだ。」
お互いが見えなくなるまで手を振り続けました。
戦闘の末に・・・
日本軍の守備兵力、約1万500名。
攻めるアメリカ海兵隊、約4万8千名。
アメリカ軍は3日でこの島を占領できると思っていたそうです。
3日で占領し、前線基地としてこの島を運用する事が、アメリカ軍の目的でした。
1944年9月15日アメリカ軍上陸。
1944年11月24日、補給の全くない日本軍は、食料も弾薬も底を付き、中川隊長は自決しました。
最後の電文は「サクラサクラ」(ペリリュー島が陥落した事を日本本土に伝える合言葉)だそうです。
1944年11月27日、日本軍の生き残り55名が最後の突撃を行い、アメリカ軍の占領が完了しました。

3日で占領する予定が2ヶ月もかかってしまった為、
この島の軍事的な利用価値は無くなってしまい、
アメリカ軍にとって、無意味な戦いになったそうです。
島へ帰って来た現地の人達は、放置された日本兵のご遺体を、1人残さず埋葬してくださったそうです。
パラオ共和国の国旗


青色は太平洋のキレイな海、
黄色い丸は月を表しているそうです。
黄色い丸が少し左に寄っているのは、日の丸に対する敬意の表れだと言われています。
それとは別に、国旗が日の丸に似ているのは、単なる偶然だ。という説もあります。
でも国旗のデザインは別にしても、世界一の親日国である事には間違いありません。
パラオでは桜は咲かないそうですが、「サクラ」という言葉は人気があって、スポーツのチーム名等によく使われているそうです。
また今でも産まれてくる子供に日本風の名前をつける方が、たくさんいらっしゃるそうです。
最後に・・・
この記事は、YouTube「むすび大学チャンネル」の、小名木(おなぎ)先生の講義を参考に執筆しました。
「太平洋戦争は日本の侵略戦争だった」とか、「いやいや、アメリカ側が仕向けたんだ」等、いろいろ議論があります。
そんな議論は専門の先生方にお任せします。
僕たちが知っておくべき事は、隣に住んでいる普通のお兄さんや、行きつけのお店の店員さん達が、当たり前のように戦地へ派遣され戦死した事実があった事。
また、そんな普通の民間人である若者たちが、どんな思いで何の為に戦ったのか、同じ一般庶民の立場で考えて、僕たちの子供達に伝えて行く事だと思います。
「日本の事を語れるのは、日本人しかいないではないか‼」
小名木先生は、動画の最後をこう締めくくっています。
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